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手元にあったギターをいじり始め、
高校へ行ったらバンドじゃー!」と意気込み、
肝心の受験勉強はぜんぜん手につかず。
なんとか無事高校にあがると、やはり同じようなやつが結構いて、
すぐバンド活動が始まった。
最初ギターを弾いてたけど、仲のよかったもう一人のやつと
ギター合戦をやり負けたほうがBassに転向。
オリジナルロックバンドは結構忙しくて、三年間バンドの為の学園生活だった。
高校卒業後は東京小石川の尚美音楽院にてコントラバスを専攻し
「赤松 安」氏に師事。
同院卒業後は”Jazz Bassist”を志して単身上京し、今で言うフリーターの身分で、
色々なジャンルの仲間とリハーサルやLive活動をするが、
じつは、♀追っかけてる時間のが多く、東京時代はBassの練習より
そっちのが方が忙しかった。
当時の仲間の何人かは、今も第一線で活躍しているようだ。
27〜8才の頃、家の事情で地元の千葉(市原)に戻ることになり、
活動のメインをこちらに移す。
そんな折、地元千葉を拠点に活躍されているJazz
Pianistの大原保人氏と出会い、
彼の経営するJazz Club等で演奏を共にするようになる。
同時に多方面でも活動の場を広げ、多くの新しい仲間とも知り合う。
中でも東京在住の、章 まりこ、成田 教 両氏とは後に彼女の初 Albumとなる
「Time Rimemberd」にBassistとして参加し、いまだ交流を続けさせていただいている。
戦後復興も一段落した頃、東京は深川の
同潤会アパートで、生まれたそうです。
とっても手間のかからない赤子だったそうで、
買い物に行った母の帰りを、窓の手すりに掴まりながら、
独りおとなしく待っていたそうです。
映画好きの母は、よく私をおんぶして錦糸町辺りの映画館に出向いたそうですが、
泣きも騒ぎもせず、とっても映画に集中できたそうです。
その当時タクシードライバーだった父は自動車事故で生きるか死ぬかの
大手術をやり(当時の東大病院)奇跡的に存命。
(しかしその時の輸血が後年になってたたり、C型肝炎により2003年9月永眠。)
父が房総の海育ちのせいか、幼い頃からよく水遊びに連れて行かれた。
初めての体験は海で大泣きしたらしいが、最後には慣れて喜んで、
帰るのがイヤで、又大泣きしたとか・・。
東京オリンピックの時、水泳日本がシュランダーというすごい外人に
大敗し、またまた大泣きしていたらしい。
そんな訳で、泳ぎ大好きっ子は、小学生時代夏休みになると、
ほぼ毎日、学校のプールや、区営プールで元気していた。
勿論、当時の下町の遊びもで、メンコ、ビーダマ、ベーゴマ、虫捕り、魚釣り etc...。
中学1年の夏休み中。突然千葉県への引越しが決まり、
しかも9月1日の転校という情報が父から入り、
「シメシメ。。宿題やらなくていいかも」と大量のドリルにいっさい手をつけず、
子供心にも大きな賭けをして勝った記憶がある。
アンサンブルの機会が少ないここ数年は、
Jazz Liveの準備以外は
コントラバス用のソロ曲や、
協奏曲を弾いて楽しんでいます。
その中でも、とくにLife Work的に取り組んでいるのが
バッハの"無伴奏チェロ組曲"で、
元Keyで挑戦しています。
'11 県内ライブハウスにて。
'09 都内某ライブハウスにて、
久々のセッション。
私の楽器
遠征することもしばしばで、
行くと大騒ぎ(大歓迎)してくれるのが嬉しい。
静岡市の某Live Houseにて。
章 まりこ Album「Time Remembered」の
レコーディング風景。
若かりし頃。
八千代市のLive Houseで。
Jazz Live House
「 Eighty One Club」で大原氏と。
公私とも大変お世話になり、
今だ気に掛けていただいている
現況は、ここ数年の母の介護からも幾分は解放され
お勤めの傍ら多い休みを利用して、
リールやったり、Bass弾いたりと、手先を動かしてます
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